ただいま昼寝から目覚めました。
で、「ロッキー」ですよ。
いわゆるあれって、ヒーローものですよね。
で、ヒーローものって、主人公の身にいろいろな出来事があっても、最終的にはヒーローが勝つ、というストーリーが圧倒的に多い。
だから、ストーリーの中で、ヒーローが苦境に立っても、「でも、最後にはヒーローが勝つんだろ?(薄笑)」という、なんだかもー、「セックスに慣れまくったヤリマン」みたいなスレた心境になるわけです(ま、そこをうまくハラハラドキドキさせるのは、演出の力というヤツで)。
だけど、「ロッキー」は違います。
たぶん、初めてロッキーを観た人は、ココロのどこかで、「でも、どーせ、最後にはロッキーが勝つんでしょ?」と思っていたはずです。「勝つことによってヒーローが誕生する、というストーリーをこの映画も選択しているはずだ」と。
しかし、ロッキーは勝ちませんでした。
私はボクシングに詳しくないので、「判定負け」というものがどのような評価を受けるのかわかりませんが、とにかく勝たなかった。
ロッキーは、試合には負けたのです。
けれど、ヒーローになったのは意外にも、「負けた」ロッキーのほうでした。
無名なチンピラ・プロボクサーだったロッキーは、チャンピオンの挑戦を受け、「チャンピオンに負けなかったこと」で観客を熱狂させます。
ヒーローとなったロッキーにむらがるインタビューア。だけど、ロッキーは「名誉には興味がない」といわんばかりに、恋人の名前を呼び続けます。あとはご存じのような感動のエンディングになるわけですが。
やはり、ここで特筆されるべきは、「演出の力」ですよね。
小説や映画などが酷評されるときに持ち出される言葉は「ご都合主義」ですが、私は「人が作ったストーリーは、すべてご都合主義である」と思っています。
だから、ご都合主義であること自体はちっとも悪くない。むしろ当然。
問題は、「ご都合主義であると観客(あるいは読者など)に思わせてしまう演出のまずさ」です。
結論や話の流れは創作者の好きでかまわない。たとえ、それがどんなにとっぴなものであっても。
ロッキーのラストだって、やろうと思えばものすごくつまらないものにできたわけです。
それを、あの素晴らしいエンディングに持って行けたのは、「演出の力」です。
演出、とひとくちに言っても、俳優の演技だけでなく、カメラワーク、脚本、音楽など、いろいろな要素があるでしょう。私は映画制作に詳しくありませんが、1つだけ良くてもうまくいかないだろう、ということは想像できます(たとえば、ラストシーンの音楽。あれの出来の良さがラストシーンの感動をより深めていることは異論がないでしょう)。
で。
ヒーローの話ですよ。
スタローンは「ロッキー」の脚本を書いているときには、おそらく続編は意識していなかったでしょう。なにしろ当時の彼は無名の俳優で、オーディションにも落ちまくっていたのですから。
だけど、「ラストで主人公が負ける」(しかしそれでもヒーローになる)というのは、次回作以降でものすごく生きてくることになります。
というのも、「『ロッキー』シリーズでは、最後に主人公ロッキーが勝つか負けるかは本当にわからない。単なる『ご都合主義』で、ロッキーを勝たせるとは限らない」という、大いなる謎(と言っていいのかはわかりませんが)を観客に与えることになったからです。
「ロッキー」シリーズでは、主人公ロッキーが勝つとは限らない−−。
これはもう、「ロッキー」シリーズを観るとき、クライマックスでの試合シーンは正座して観ざるをえませんわな。
だって、ロッキーは勝つか負けるか、わからないんだもん。
「勝つか負けるかわからない」ということにおいては、もはや「ロッキー」シリーズの試合シーンは「リアルのボクシング試合」と変わらないわけです。
観客(あなた、であり、私)は、「ロッキーは負けるかもしれない、ロッキーを応援しなくちゃ!」という気持ちにさせられる。
もうこの時点で、「ご都合主義」の術中にはまっていることになります。
もちろん、観客を「ロッキーを応援しなくちゃ!」という雰囲気に持っていくためには「演出の力」が不可欠ですが、「ロッキーシリーズでは、主人公ロッキーが負ける可能性がある」という前提条件が、観客をより熱狂させる大きな要因になっていることは間違いありません。
すごいなあ、ロッキーは。
感動のラストシーンを観ながら(何度観ても泣けます)、頭ではそんなことを考えている私なのでした。
追伸 主人公ロッキーが負けるにもかかわらず、ヒーローになるというストーリーに元ネタがあるのは知っていますが、そんなのは、まあ、些末なことです。大事なのはそれを「チョイスした」スタローンのセンスですから。
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